静寂をついて読経が始まった。集まった人々が、座禅を組み一心に黙想する。四方の壁には、「日々是好日」「本来無一物」といった達筆な書が目に入る。臨済宗高僧直伝の作品だ。ここがヨーロッパだとはとても思えない。
 スイス・チューリヒ市内にある閑静な住宅街。小さなアパートの一室で、毎週火曜と水曜の夜に禅教室が開かれている。
 教室の生徒は中年の社会人が多い。公務員もいれば主婦もいる。参加していた高校語学教師のフォン・レディングさん(44)は、「禅をするとリラックスして落ちつく。まだ1年なので、とても無の境地にはなれないが……」と語る。
 主宰者は、ハイニ・シュタイマンさん(45)。チューリヒ州立大学で日本語を学んだ後、23歳の時から瞑想(めいそう)に興味を持ち、禅の道に。岐阜県美濃加茂市にある臨済宗妙心寺派の古刹(こさつ)、正眼寺の住職だった故谷耕月老師と知遇を得て、その後たびたび日本に渡り、正眼寺や和歌山県の興国寺で修行した。
 「人間はふだん家族や仕事にエネルギーの大半を使っているが、余分な考えをやめて座禅に集中すれば、本質的なものに向かい合うことができる」と語るシュタイマンさん。興味本位で始めた人はやめていくが、いつも15人ほどは実践者がおり、スイス社会の中で静かなブームは続く。
 道場に隣接した自宅で、精進料理の教室も開く。禅と同じように集中し、無になることが極意だという。「一生懸命作っていると、無の境地に近くなる。ジャガイモ、インゲン一つひとつの素材の味を味わう」。
 記者もひさしぶりに2日間続けて座禅を組んでみた。10分で足がしびれてしまった。しかし、忘れかけていた伝統文化の息吹を感じて、心は晴れ晴れとした気持ちに満たされた。(Asahi.com 2001.04.30−15:02)
禅道場を主宰するシュタイマンさん。毎朝5時15分に起床、「無の境地」を求め、修行に余念がない
スイスで広める「無の境地」