religion
 昨今の日本国に於ける代表的な国語辞典やらを紐解くと、宗教=religionとの説明が、何の不思議もなく為されている。その初出は、明治時代に表された、井上、元良、中島共著『英独仏和哲学字彙』1912であると言われる。爾来連綿として、この様に理解が為されて今日に至っている。英語で、religion 独語で、religion 仏語でも同じくreligion と表記され、それぞれ独自に発音が為される。しかしそのオリジナルは、ラテン語に遡ることが出来る。それぞれがこのラテン語の、religio(レリギィオー)を摂取して自国語とした。クラシカル・ラテンにおいて、レリギィオーは、
 1.几帳面なこと、道徳的な責務。尊崇、尊敬、敬虔の念。神々に対する恐れ。神々への責務。
 2.宗教的責務 3.神々の礼拝、戒禁の遵守。信仰、礼拝の様式。聖なること、尊崇の要求。尊崇の対象、   聖なる場所、聖別せられた物。
などの意味を有する。この語源に関しては、異説があるらしい。すなわち、re+legere とre+ligareとである。しかし、共通する部分がある、すなわちprefix接頭辞の部分である。このreは、英語でも多く使用されるreturnとかremoveとかと同じで「再び」という意味を持つ。しかしてligioであるが、文法的にもligare リガーレの方が自然であり、リガーレとは、「1.結ぶ 2.結び合わせる、結んで一つに纏める。」との意味がある。さすれば、religio(レリギィオー)とは、まさに「再結」と言う意味となろう。
 再び結ぶと言うからには、これに先立つ離反が有らねばならない。それは何かと言えば、旧約聖書の創世記第3章におけるアダムとエバの神への造反と楽園からの追放である。旧約聖書を奉ずる「啓典の民」は、これを原罪と呼ぶ。人類の祖であり、神により神に似せて創られた人間の最初のカップルがつくった罪は、その子孫たる人類の原罪として等しくかせられているとされる。
 これを贖い、十字架に架けられ血を流したナザレのイエスは、復活して天に昇り、神の脇にある。この信仰をして「再結」といい、その意味を明確に著したのが、アウグスチヌス(Aurelius Augustinus354-430)であり、大きく神学に関わる著述がギリシャ語からラテン語へと傾斜してゆく端緒となった。
 それは神が一人子を使わした行為を神の愛とし、ギリシャ語のアガペーが当てられていた。それに対しアウグスチヌスは、カリタス(cultus)なる言葉を用いて、これが英語のチャリティー(charity)となる。実に『神国論』においてカリタスは、人間に対する尊敬をも意味し不適切であるから、レリギィオーを持って、神にのみ為されるべき礼拝とする、と言う表記が見られる。かくして、アウグスチヌスによりレリギィオーは、キリスト教を指し示す語彙であることが示された。
 しかし、広義の解釈が可能で有れば、レリギィオーたるレリィジョンは、旧約聖書の創世記にある楽園の追放から、再び神の国に。言い換えれば再び召される事を意味すねのであるから、その中にメシアの概念を擁する故に、旧約聖書を等しく奉ずるユダヤ教、キリスト教、イスラム教をもレリィジョンと言う語に於いて包括することが可能であり、概念的にも理にかなうことと理解される。