漢訳仏典について
  仏教の中国渡来は、膨大な経典の翻訳という一大文化事業の始まりでもあった。サンスクリットからの翻訳ばかりでなく、シルクロードを経過しつつ西域の言語に翻訳されたものも翻訳したことから、やがて原典を求めて天竺へ出かけるという事までが行われる。玄奘三蔵の将来した原典群とその翻訳事業は、この一大事業の大きな分岐点となる。彼以前の翻訳を旧訳と称し、彼のなした翻訳を新訳と称する後世の大分類は、その事業の偉大さをして充分に示している。
 この一大事業のもう一つの側面は、中国の語彙があっという間に倍加したことである。
たとえば、Buddhaとローマ字化された梵語(サンスクリット)は、音写語で「仏陀」と表記された。単に仏とするのは簡略である。日本語でこれを「ほとけ」と読むのは、中国での初期の音写ブド(浮図や浮屠の字をあてる)が日本へ入って「ふと」から「ほと」に慣用化され、これに「け」がついて一般化したとされる。さらに意味で訳された「覚者」もあり、訳経家によって幾種も音写語がある。
 行を重んじ言葉をたてないとした禅宗でさえも、多くの翻訳語があり、様々な表記がなされた。サンスクリットの、Dhyanaディヤーナは、音写で「禅那ぜんな」が当てられた。これが略されて禅だけが一人歩きした。この漢字には何ら概念が含まれていない。禅那という梵語と定坐という漢語が、ジョイントして禅定や坐禅が成語された。梵漢造成語は、他にもたくさんみられる。サンスクリットのKsamaサマは、音写で懺が当てられ、意訳が悔やむである。それをくっつけて懺悔とした。だから懺悔はサンゲと読むのが本当だ。ザンゲと読むのは、明治時代に「聖書」が中国語化され日本語化されたときに、仏教用語であった「懺悔」を借用して、混同を避けるため濁音をつけて読ませた。こうして日本語を混乱させた言葉は他にも多く、もう一つ挙げれば、礼拝はライハイが本当なのにレイハイとした。また混乱させた一例は、天国と地獄VS極楽と地獄だろう。全く別物なのに地獄だけは読みまで同じだ。
 いかに、禅の同義語とその漢訳語を列記する。  
Dhyana ディヤーナ 音写語 禅那 意訳語 定・静慮
Samadhi サマーディ 三昧・三摩地 定・正受・等持
Yoga ヨーガ 瑜伽 瞑思